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Across The Danube / John Philip Sousa (1877)

across the danubeアイキャッチ 1870's
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こんにちは!あぽ(@apocryphally1)です。POPSの歴史をたどっていくMuseum of POP Musicのコーナーへようこそ!録音技術が確立した19世紀末ころからの音楽をコレクションしています。100年ほど前の大衆音楽からJazzやBluesが発展していくポピュラー音楽の黎明期を発掘してきますよ。

*掲載している曲の一部には差別を助長するようなタイトルの曲があります。歴史を辿る面では避けては通れないデリケートな問題ですが、当時のものをそのまま記載しています。当然ながら本ブログには差別を助長するような意図は全くないという点、ご理解いただければ幸いです。

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Across The Danube / John Philip Sousa

Danube River(ドナウ川)は、ロシア帝国と定期的に戦争をしていたオスマン帝国との国境の1つでした。4回目の戦争で、ロシア帝国は1877年の6月と7月にこのドナウ川を越えることによって決定的な勝利を得ました。Sousaはこの「ドナウ川を越えて」のインスピレーションをトルコ人に対するキリスト教世界の勝利と感じたようです。おそらく彼はこのニュースに夢中になったのだと思います。


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露土戦争について

ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)との戦争です。1568年-1570年のアストラハン遠征から何度もロシア帝国とオスマン帝国は戦争を繰り返していました。その中でクリミア戦争(1853年-1856年)の次に起こった戦争です。

ロシア帝国は1877年4月24日(露暦4月12日)にオスマン帝国に宣戦布告し、バルカン半島とアナトリア半島東部が戦場となる露土間の戦端が開かれた。

ロシア軍は、バルカン半島ではプレヴェン要塞を守るオスマン・パシャの粘り強い抵抗の前に約5ヶ月におよぶ包囲戦を余儀なくされた(プレヴェン攻囲戦(1877年7月20日 – 12月10日)。ロシア軍は、第1次シプカ峠の戦い(1877年7月17日 – 7月19日)でシプカ峠を確保。プレヴェンを完全に孤立させることに成功したロシア軍は、戦いを優位に進めた。

バルカン半島では露土戦争の引き金となったセルビアが戦争再開をめぐる国内対立の末に戦線に復帰した。

アナトリア東部ではカルスが陥落した(カルスの戦い、1877年11月17日)。

1877年12月10日にプレヴェン要塞が陥落すると、Tashkessenの戦い(1877年12月31日)と第4次シプカ峠の戦い(1878年1月5日 – 1月9日)でオスマン軍は最後の抵抗を見せたが、ロシア軍はシプカ峠からオスマン軍を完全に撃退した。ロシア軍はイスタンブールに向かって進撃し(プロヴディフの戦い、1878年1月17日)、エディルネを占領し、イスタンブールの近郊のイェシルキョイ(サン・ステファノ)にまで到達した。

こうして1878年3月、ロシアの勝利で戦争は終わり、サン・ステファノ条約が結ばれた。ロシアの勝利の要因の一つとなったのは1874年に施行された徴兵制度であり、その点ではクリミア戦争での敗戦以来、皇帝アレクサンドル2世が行ってきた「大改革」と呼ばれる諸改革の成果が出たとみることもできる。

wikipediaより(一部編集)

Across The Danubeの楽曲プロフィール

  • Title : Across The Danube
  • Date : 1877年
  • Composer : John Philip Sousa

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